雲林院 寶山(宝山)

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雲林院 寶山(宝山)について

雲林院 寶山(宝山)の由来

雲林院 寶山(うんりんいん ほうざん)とは

  京都の焼物は、桃山時代から徳川初期に東山の山麓の北から南にかけて粟田焼・八坂焼・清水焼・音羽焼など多くの窯が築かれていきました。中でも東海道の京の入り口に当たり、三条大橋手前交通の要所である粟田地区は、門跡寺院青蓮院の領地で徳川期陶業者の数も最も多く、長く栄えた所です。

こうした動向は、豪商 神谷宗湛日記の慶弔十年(一六〇五)や金閣寺の鳳林和尚の日記寛永から慶安(一六二四‐一六五二)に再々京焼の事が取り上げられ、東山の丘陵地や北山の地に登記の窯が築かれ陶器が作られていた様子を知ることができます。寶山家も徳川初期には、この粟田の地に窯を築き、御所・公家・各藩・大名家に多くの陶器を収めていた事が記録、注文書などから伺えます。

  しかし、徳川体制の弱体化と共に粟田焼も衰微します。明治初期にはヨーロッパへの輸出が盛んになり一時活況を呈していましたが、寶山家は輸出品は作らず、主に徳川中期から後期に盛んになりました煎抹茶用具の製作を手掛けております。

  東山の粟田から、昭和になり東山の泉涌寺に移りましたが、茶花道具を主として一筋に陶磁器の製作に携わっております。

初代 雲林院 要藏(一五五五年~)

  初代は室町時代後期、山城国宕郡御菩薩焼を興し、やがて粟田に居を移し朝廷や幕府の御用窯として粟田焼の中心的役割を担い湛海寶山律師の名を賜り寶山と号しました。
以後、寶山の下には、上田秋成、青木木米、高橋道八、尾形周平、小田垣蓮月などが教えを乞い、また時には焼成もしていたようです。
京焼の祖であり、日本の煎茶道具の始まりはこの寶山からと言っても過言ではなく、また京焼の伝統を現代まで綿々と受け継がれています。

雲林院 寶山(宝山)の活動

1.陶磁器作陶

2.陶磁器製品販売、陶磁器製品・所蔵品展示

  展覧会では、当代の作品を中心に500年以上前より雲林院家に伝わる歴代"寶山"の作品
  当家で保管する貴重な資料・作品も展示致しております。

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