雲林院 寶山(宝山)の陶譜
京都の焼物は徳川初期東山傾斜地に来たから南に次々の窯が築かれていき、私の先祖は東山三条粟田の地に窯を開き、いわゆる粟田焼に長く携わってきました。
京の染織などから学べる格調ある焼物が生まれましたが、徳川の晩期には時代の変化が激しく盛んになりだした煎茶具を主に抹茶物など趣ある品を目標にしております。
登窯がなくなり、ロクロ成型、意匠、個性の重要性が増しています。
雲林院 寶山(うんりんいん ほうざん)の歴史
- 弘治(一五五五)
- 初代 雲林院 要藏
- 正保(一六四五)
- 七代 雲林院 文造
- 万治(一六六〇)
- 九代 雲林院 安兵衛
- 享保(一七一六)
- 十一代 雲林院 文造
- 明和(一七七〇)
- 十二代 雲林院 熊之助
- 寛政(一七九五)
- 十五代 雲林院 熊之助
- 文政(一八二〇)
- 十六代 雲林院 文蔵(泰平)
- 弘化(一八四四)
- 十七代 雲林院 熊之助(昌平)
- 明治(一九〇八)
- 十九代 雲林院 泰之佑(髙臺)
- 昭和(一九三八)
- 二十代 雲林院 昭行
信楽ヨリ京上加茂二移居 神具等ヲ焼ク
正保二年粟田東分木町二移リ粟田焼開窯ス
大和国生駒寶山寺開山湛海律師ヨリ寶山ノ号ヲ贈ラル 依而世襲号トナス
陶漆推朱黒等ヲ作ス
和蘭陀風 青磁風 瑠璃等ヲ製シ其門葉多ク 上田秋成 木米 頼山陽等アリ
旧例ニ依リ大佛殿茶盌ヲ製ス
安政三年粟田青蓮院宮ヨリ泰平ノ号ヲ贈ラル
明治二十年有栖川宮ヨリ昌平ノ別号ヲ贈ラル
大正五年橋本独山師 田近竹邨師ニ就学シ 独山師ヨリ高臺ノ別号ヲ贈ラル 昭和五年業ヲ継グ
歴代ノモト陶技ヲ学ビ 京風ノ伝統ヲフマエナガラ品格ト個性アル作品ヲ目ザス
初代 雲林院 要藏(一五五五年~)
初代は室町時代後期、山城国宕郡御菩薩焼を興し、やがて粟田に居を移し朝廷や幕府の御用窯として粟田焼の中心的役割を担い湛海寶山律師の名を賜り寶山と号しました。
以後、寶山の下には、上田秋成、青木木米、高橋道八、尾形周平、小田垣蓮月などが教えを乞い、また時には焼成もしていたようです。
京焼の祖であり、日本の煎茶道具の始まりはこの寶山からと言っても過言ではなく、また京焼の伝統を現代まで綿々と受け継がれています。
二十代 雲林院 昭行(うんりんいん てるゆき)(一九三八 ~ 現在)
- 一九三八年
- 十九代 寶山の長男として生まれる
- 一九五七年
- 京都市立工芸試験所にて製陶技法、釉薬を学ぶ
以後、父の仕事を手伝いながら絵を川端先生に、水墨画漢詩を直入の曾孫 直外に学ぶ - 二〇十九年
- 現在に至る